大徳寺
大徳寺とは
鎌倉時代末期の正和4年(1315)に大燈国師宗峰妙超禅師を開山とする臨済宗大徳寺派の大本山です。開基は赤松則村です。山号は龍寶山です。
応仁の乱で荒廃しましたが、一休和尚が復興をさせ、桃山時代には豊臣秀吉が織田信長の菩提を弔うために総見院を建立、戦国武将の塔頭建立が相次ぎ隆盛を極めました。
大徳寺
勅使門
大徳寺の歴史
大燈国師により開かれる |
大徳寺を開かれた大燈国師(宗峰妙超)は弘安5年(1282元寇の翌年)、現在の兵庫県たつの市に生まれられました。11歳で西の比叡山と呼ばれる書写山円教寺に登って仏教学を修められます。17歳で修行を重んじる禅の道にはいり26歳で師匠の大応国師(南浦紹明)から悟りを認められます。さらに鴨川の五条橋あたりの乞食隊裡にまぎれての悟後の修行をされたのち、34歳で京都洛北の紫野の地の小庵に移り住まれ、これが現在の大徳寺の原点となります。 |
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室町時代 |
元弘 3年( 1333)に後醍醐天皇から、建武 4年( 1337)には花園法皇からの宸翰をもって本朝無双の禅苑として、南禅寺と並ぶ高い寺位をあたえられますが、やがて五山制度をはなれ独自の道を歩むことになります。 |
戦国時代 |
下克上の戦国時代には守護大名の力が弱まり、外護を受けていた五山寺院の勢力は弱まりますが、大徳寺僧は新興勢力の戦国大名や商人に積極的に禅を広め、現在の大徳寺に繋がってゆきます |
大徳寺の概要
臨済宗大徳寺派の大本山 | 大徳寺は京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山です。 |
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境内 | 枯淡な松林に囲まれて山門・仏殿・法堂・方丈・庫裡・僧堂・浴室・経蔵・鐘楼などの伽藍があり、2つの別院と22の塔頭を残し、江戸時代の禅寺の雰囲気を今に伝えています。 |
鎌倉時代 | 鎌倉時代後期の正和4年(1315年)、大燈国師(宗峰妙超)は紫野の地に庵を結び「大徳」の扁を掲げました。やがて南北朝時代、北朝の花園上皇は大徳寺を御祈願所とし、南朝の後醍醐天皇は勅願道場としました。皇室の寺として大徳寺は五山制度の寺院よりも格上とされましたが、やがて大徳寺は幕府の五山制度からはずれ独自の道を歩みます。 |
室町時代 | 室町時代には応仁の乱による兵火で灰燼に帰しますが、今も一休さんの名で親しまれる一休禅師によって再興されます。一休禅師に参禅した堺の豪商・尾和宗麟は方丈・仏殿を再建し、同じく連歌師の柴屋軒宗長は山門を再建しました。また様々な文化人が集い、一休禅師の禅は日本文化に大きな影響を与えます。 |
茶道 | 佗茶の祖・村田珠光は一休禅師に、武野紹鷗や千利休は大林宗套に参禅し、「茶禅一味」と称されるほど大徳寺の禅は茶道に大きな影響を与えました。 |
戦国時代 | 戦国時代には大徳寺僧は戦国武将に禅を説きます。そして戦国武将によって創建された塔頭が大徳寺には今も沢山残されています。また豊臣秀吉が織田信長の葬儀を大徳寺で営みました。千利休が寄進した山門の二階に利休の木像が置かれたことに秀吉が怒り、千利休が切腹させられた話も有名です。 |
明治時代 | 明治維新後の廃仏毀釈では多くの塔頭が失われましたが、清冽な空気が流れる境内では、今も禅の修行が続けられています。 |